月だけを見ている。

ハンカチ拾います。

堂々巡りかな。

確かに、記憶力は良い方だと思う。それは時を遡るほど卓越しており、例えば幼稚園の教室内に貼られていた福沢諭吉の学問のすゝめの冒頭、『「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。』という一文をすぐさま暗唱したり、小学校の時に初めて友達の家に泊まったのが火曜日だったこと、晩ご飯がグラタンでブロッコリーを飲み込んだことを今でも覚えていたり、そんな感じ。

 

だけど、覚えることへの得意意識を相殺してしまうくらい、苦手なことがある。日常に記憶力を活かすことはあまりない一方で、それは生活に大きな弊害をもたらしてしまう。

 

私は、恐ろしいほど物をなくす。

 

手に持ってる物への意識が薄い。さっきまで手にあった物がなくなってる。だけど、もちろん、大抵は落としていることなんてなくて、無意識のうちにどこかへ置いたりかけたり入れたりしている。

 

この、『無意識のうちに』というのが問題で、本当に気がついたらつい数秒前まで強く握り締めていた物、下手したらポケットの中にあった物まで行方不明になっている。

 

これは物をよくなくす人あるあるとして有名な話だが、「これは絶対に無くしてはいけない!」というものをこれは大切だからとどこかに厳重に保管して、それがどこだったか思い出せなくて結局ありとあらゆるところをひっくり返して探す羽目になる。あの時間、なに?

 

物をすぐになくすと同時に、私は物を探すのが桁外れなまでに下手だ。

 

なくした物が実は意外と分かりやすく近いところにあったなんてよくあることだが、まったく見つけることができない。見えていても見つからない。

 

歩くのが好きなので、スーパーの火曜市!だとか毎月何日は特売日!みたいな謳い文句に吸い寄せられてくてく使い慣れないスーパーに足を伸ばしたりするが、使い慣れないスーパーは何がどこにあるか分からないので買い物に膨大な時間がかかる。

 

概ね、スーパーとかいうマーケットは入り口すぐに青果物が並んでいるが、その中から例えばトマト、玉ねぎ、ニンジン、ピーマンを探し当てるとなると、ひたすらその辺りをぐるぐるぐるぐる回り続けることになる。

 

当然だが、高速でカートを押して走り動体視力で野菜を判別しているわけではない。1つ1つゆっくり見渡し、あぁ、ここはネギか、ネギは緑だから突然ピーマンが現れないか注意して見ておこう、と、非常に注意深く見渡している。

 

苦労して「玉ねぎ1つ58円」に出会った後に、数個売りならいくらだろうと思って何故か離された位置に置かれた玉ねぎ3つ入りを見つけた後、やっぱり1つで良いなと思っていざ買い物カゴに入れようとすると、さて、玉ねぎ1つは…となる。

 

青果物・水産物・食肉はコーナーが大きいので見つけやすいが、醤油とかブラックペッパーとか完熟トマトのハヤシライスソースのコーナーを見つけるのも大変なのに、さらにその中から目当ての商品を見つけるなんて至難の技だ。私の好きな甘酒はどこだよ!?となって買い物終了。とても時間がかかる。

 

物をなくす、探せない、に続いて苦手なことは、私には地理感覚が搭載されていない。

 

地図が読めないことはさることながら、慣れ親しんだ地でも平気で迷子になる。代表的なのは京都で、京都市内は碁盤の目になってるから簡単だとか言って京都の人間はよく室町通りがなんだ、六角通りがなんだと言って進んでいくが、漕いでも漕いでもたいして進まないちっさいタイヤの自転車で各所を訪れたにも関わらず私が迷わずに行くことができるのは出町ふたばだけだ。どうでも良いけど「こいでもこいでも」の予測変換がこれなのは酷い。

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確かに記憶力は良い。だからどの景色を見ても「見たことあるな!」と思う。だけど、では次は左か右か直進か?が思い出せない。地図を開いてよし分かった!と言って逆に進んだりする。記憶力が良いことと道に強いことはまったく違うらしい。だから、本当は使い慣れないがたまに行くスーパーにも迷子になりながら行く。家から真っ直ぐなところにあるライフに行くのが一番、買い物時間も距離も短くて済む。

 

そう考えると、物はなくすし探せないし地図も読めないのに、好きな人が選んでくれたお財布だけは2年半の間一度も紛失せずにいるのは、いかにそれが大切かが分かる。あの人のことなんか覚えている必要はないのにな。