月だけを見ている。

ハンカチ拾います。

マカオで見た祈りのこと。

ご存知の方もいるかと思いますが私はカジュアルな無神論者なんですが、建築だったり芸術といったものを楽しむために神社やお寺に赴くことは好きだし、歴史も好きだし、「祈り」と呼ばれる人々の思い自体やその行為にも興味はある。

 


2年前、人生最大規模(だと良いなと思うんだけど)の失恋を経験した翌日午前10時に卒業旅行のためマカオに飛んだ。号泣しながら空港のコンビニでせめておにぎりだけでも食べようと思って選んだものが高箱ガニのおにぎりだった。無意識にちょっと良いもの選んでて面白いね。

 


マカオといえば富豪がカジノで豪華絢爛に遊ぶか、香港メインの旅行でチラッと立ち寄るか、アジアの国々に行き尽くしてマカオにでも行ってみるか〜といった感じだと思うんだけど、我々貧乏大学生たちはそのいずれでもなかった。予定していた台湾旅行が2018年2月に起こった地震のため中止になり、その頃には他の国への予約はほとんど埋まっていたため、なんかアジアだし聞いたことあるし前年に行った韓国のカジノでガッツリ稼いで味をしめた私たちはマカオ行きを決めた。

 


それが、マカオ。『アジアのラスベガス』と呼ばれるだけあって、物価が高い。韓国のカジノとは比べ物にならないほど掛け金が高く、気軽にルーレットも回せない。となりの席の風船みたいな中国人のおじちゃんが20万をポンっと賭けてろくに集中せずずっとスマホゲームをしてるからどっちかにしろ!とコインを奪ってやろうかと思った。儲け目的のためではなくあくまで金持ちの娯楽ということだ。

 


また、他のアジアの国々がその辺の屋台や小屋に美食が転がってるのに対して、中華とポルトガル料理の融合であるマカオ料理というものは、私の口には合わなかった。ちゃんとしたレストランに行っていれば素材や味付けが素晴らしく私のバカ舌も「これが高級料理ね!」と納得したかもしれない。しかし私たちは1食目ですでに質素な大学の学食が恋しいなといった感じだった。

 


そんなマカオだが、マカオ歴史市街地区という世界遺産に登録されている場所もあり、数多くの教会や広場を見て回ることができる。教会の多くは色使いがカラフルで可愛らしい建物がいくつも並んでいる。日本史でも有名なフランシスコ・ザビエルの腕の骨?が納められている協会もあった。

 


観光客が多いとはいえ、現地の人が礼拝する場所なので私は恐らく生まれて初めて本当の意味で祈りを捧げる人たちを間近で見た。それ以前に日本で見た初詣や、お葬式で手を合わせる人たちとはまったく違って見えた。直前に大失恋をして訳が分からん状態になっていた私はその姿に衝撃を受けた。

 


一人のおばあさんに近いおばさんが、地面に膝をついて手を合わせ、指を重ね、目を閉じ、その手に額をそっとつける、という一連の動作を見て、私にはそのおばさんの周りに目には見えないけれど淡い光の膜ができているようなイメージが浮かんだ。そこには、願い事だとか誰かのためにとかそういった言葉に変換できるような具体的な何かではなく、ただそのままの『祈り』があった。

 


心の底から願っていたと思う。少しでも長く一緒にいたかった。レンゲで冷奴を4等分する仕草や、目を伏せた時のまつげ、他の誰も呼ばない名前で私を呼ぶ時の少し高い声、繊細そうな横顔、どれも壊したいくらいに欲しかった。付き合えなくても良いから、誰のものにもならずに、私の言葉に笑ったり私のために涙を流してくれるこの人が歳を重ねていく姿をとなりで見ていたかった。

 


そんな考えが数年かけて骨の髄まで染み渡るような時間を過ごしてきた私には、祈りの姿は衝撃で、同時に恥ずかしくもなった。私利私欲の塊のような私の願いがどろっとした絵の具やペンキだとすれば、その教会でお祈りをしている人たちは光を反射した眩しい白だと思った。

 


こういうものを見られるから旅行って良いんだよな…と思いながら私の心まで浄化されたような心持ちで、帰りに寄ったカジノで友人が大惨敗してホテルの外で土下座してたからさっき見た膝をつくおばさんと大違いだな…と思った。日本に帰ってからも泣いて泣いて泣いて過ごしていたら一週間後に好きな人から連絡が来て、鳥貴族で金麦大で乾杯した。その日も冷奴を4等分してくれて、こんな小さなことで十分だからって思えて、これが私の祈りだと思った。ていうかめちゃくちゃ泣いた数日間なんだったの?