月だけを見ている。

ハンカチ拾います。

26歳、最後の言い訳。

家を出ようかなと本格的に考え始めたのは、今年に入ってからだった。仲良い人が東京にたくさんいたし、そしてその人たちのほとんどに「遠いから」という理由でなかなか会えずにいた。問題となっていたのは時間ではなくお金で、近くにいれば公園で缶ビールを飲んだり、ちょっと30分だけ会おうよってことができるのにな、と常々思っていた。私は人付き合いも恋愛も旅行も生活も、気軽なものを好む。恋愛だけ逆行していますが…。

 

周りにもたびたび「どうして26年間も毒親の元から離れずにいるの?」と尋ねられてきた。私のことを思って、離れた方が良いよと言ってくれていることは分かっていた。だけどその度に、私は自分を責められているように感じ、ますます身動きが取れなくなった。ここに、長い言い訳を残させてほしい。遠い未来、私がこれを読んだ時に「どの時点の私も間違っていなかった」と思えるように。

 

私が家を出なかった理由は大きく分けて3つある。

 

①母を幸せにできなかったという自責の念

②「家を出たい」と言った時に起こるに違いない母の癇癪への恐怖

③私がいなくなると母に味方がいなくなるから

 

ご存知の通り、私の両親は教科書通りの毒親です。若くして家族と縁を切ったせいかアダルトチルドレン丸出しのそこそこ顔の良い男と、お嬢様育ちの途中で父親が人に騙され多額の借金を肩代わりするはめになり心中しかけたそこそこ顔の良い女の間に、どっちに似たんだか分からん私が産まれた。

 

母からは小学5年まで身体的な暴力、それから今に至るまでは言葉の暴力を受けて育った。父は私が物心ついてからずっと単身赴任で、一緒に暮らした記憶はない。フラッシュバックと夜のトラウマは今も色褪せず、私はドラマや映画もろくに見られないし、夜遅くに帰宅した時の、暗がりに浮かぶ人の気配で震えてしまうのも治らない。治ってくれ。

 

一度、母に「子どもを虐待した人間は他の行いがどれだけ優れていてもろくな死に方をしない」と言ったことがある。その時、母は「そんな何年も前のことを」と言った。された側は忘れたくても忘れられないのに、した側は簡単に忘れるし無かったことにできるんだなと思った。

 

先ほどの私の発言と矛盾しているようだが、私は意地でも母を幸せにしたかった。姉と父が家を出て行き、残された私と母は壮絶な暮らしを共にした。お金がないという事実はその事実の印象以上に人の心を蝕む。多額の借金と抵当権を抹消できない馬鹿デカいくせにボロい家を背負い、借金を返すために別のカード会社から借金を無限ループ、母の親友で私にとっても実の母同然だった人が医療ミスで呆気なく亡くなり、私の夢の中に泣きながら出てきた祖母がその日の朝リビングで急死していた。生きてても良いことなんか何一つなかった。ここには書けないようなこともたくさんあった。

 

そんな風に私を痛めつけ苦しめ続けた母も、私を育てたというのは事実なので、「感謝している」なんておそらく母が死ぬ間際か死んだ後まで絶対に思えないけど、「母をこのままで死なせないぞ」って気持ちは幼い時からずっとあった。

 

では、「母にとっての幸せ」とは何か。それは紛れもなく「私が夢を叶える姿を見ること」だった。

 

仕事を探す時も「どうしたら母の喜んだ顔が見れるか」を軸にしていた。やりたいことを見つけ、ものすごく勇気を出して母に伝えて(その時も癇癪を起こすかと思って怯えていた)、母がそれを受け入れ、ましてや応援してくれた時、私は生まれて初めて母から認められた気がした。

 

自分で自分のことを「頑張ってる」と言うことは私の美学に反するんだけど、それでも私は文字通り、死に物狂いで頑張った。あれ以上頑張ることは今後ないと思う。息が止まるほど緊張したことも、寝るのを惜しんでエントリーシートを推敲したことも、ローンを組んで就活のスクールに通い、思わずトイレで泣いてしまうくらいビシバシ鍛えられたことも、全部ハッキリ覚えている。

 

それでも報われなかった。努力が報われなかったショックと母への申し訳なさと、最後の希望を失った絶望感で私は何も手につかなくなった。最後のチャンスだった本命企業の選考は途中まで進んでいたがコロナで中止になった。途中まで進むことができて光栄だった。悔しいと思えるほどの気力は残っていなかった。やり切ったと胸を張って言えるほどやり切っていた。エントリーシートが通過したことも、途中の面接まで進めたことも、今までの努力が少しだけ実を結んだ気がした。それだけが救いだと思う。

 

やりたいこともなくなった頃、こちらもコロナの影響で父が週一回ほどのペースで自宅に帰るようになってから家庭内がますます険悪になった。怒号が飛び交い、姉は小学生女児のような典型的なやり方で母を虐め、母は父からよく分からないことで執拗に責められビクビク生活し(私にしたことが自分に返ってきてるな、と思う)、それを見ている私は母に酷いことをする父と顔を合わせるだけで具合が悪くなるというとんでも家族になった。

 

もう潮時だなと思った。誰が悪いとかじゃなくて。確かに母はすぐに癇癪を起こすし、ゆっくりじゃないと物事を考えたり判断を下したりできないし、それを少しでも急かしたり周りが焦ってる感じを察知するともう『ダメ』だし、浪費癖が凄くて毎月どこに消えたか分からない生活費は消息不明のままだし、一度暴れ出したら手をつけられないけれど、母だって好きでそんな風なわけじゃないことは一緒に暮らしてきた私にしか分からない。姉も父も「あいつは頭がおかしいけどぬんが面倒見てるから」で済ませてきたから楽で良いよなと思う。

 

私は母をなんとかしたかった。自分と同じように、「生きてても何も良いことはない」と本気で思っている母に「生きてきて良かった」と思ってほしかった。そう思わせることが出来るのは自分しかいないと信じていた。今でもそう信じてる。

 

今までの私にはそれを成し遂げられなかった。だけどそれはきっと一生じゃない。離れるなら今だと思った。そう思うまでに26年も費やしてしまった。思わせてくれたのは周りの人達だった。私は私のことを少しも許せていないし、こうしている今だって巨大な罪悪感で内側から破裂しそうになっているけど、もし近い未来に安心して眠れる夜が訪れるなら、その夜がやっと私の人生の始まりなんだと思う。その先でいつか母と普通に話せる時が来たら、「間違っていなかった」と思えるんだろう。

夢の話。

本を作るなら縦書きにするって、ずっとそう決めてた。

 

本を出すってことを決めていたわけではない。それは例えば、小さな子どもが大きくなったらお姫様になりたいと願ったり、戦隊モノのヒーローになりたいと夢見ることに限りなく近い。

 

本が好きだった。本に救われ、支えられてきた人生だった。

 

誰しも心の中に、神社を持っていると思ってる。それは概念としての神社で、お守り、と言い換えても良い。形があるものもあれば、ないものもある。好きなアイドル、何かで入賞したこと、一世一代の大恋愛、一人旅、辛くて仕方ないことを乗り越えた経験、一生懸命打ち込んで何かを成し遂げた自信、大切な人の形見、有言実行の記憶、もう無理だって時に人からかけてもらった言葉。

 

人生はたやすく転落することもあれば、思いがけず好転することもある。そういった時に、普段は静かにしまってある宝箱の中からどの名場面を取り出し、再生に向かうのか。大勝負の直前に祈りを捧げるのは、どの追憶なのか。

 

息ができなくなるような辛いこと、涙が止まらないくらい悲しいことがある度に、「それでもあの時よりはマシだ」と思う『あの時』というものが存在して、そうすると本当に「確かに今の方がずっとマシだな」って素直にそう思う。岩で頭を打ちつけ、内臓を煮られるような鋭い絶望を味わった『あの時』というものに、私は今も生かされてるんだなと思う。それだって私の中の立派な神社だ。

 

おこがましいけれど、私がいつか本を作るなら、読んでくれた人にとってそんな存在になれたら、と思う。丸ごとじゃなくても良い、切り取られたどこかの文章、たった一言、本を開いていた時に対峙していた何かでも、何でも良い。努力が報われなかったり、涙すら出ない時、自分や他者を許し認めることができなかったり、寂しくて眠れなかったりした時に、いつでも訪ねてくれる神社のようなものが作れたら良いなと思う。それが私の救いにもなる。

 

死ぬまでにいつか叶ったら良いな。

マカオで見た祈りのこと。

ご存知の方もいるかと思いますが私はカジュアルな無神論者なんですが、建築だったり芸術といったものを楽しむために神社やお寺に赴くことは好きだし、歴史も好きだし、「祈り」と呼ばれる人々の思い自体やその行為にも興味はある。

 


2年前、人生最大規模(だと良いなと思うんだけど)の失恋を経験した翌日午前10時に卒業旅行のためマカオに飛んだ。号泣しながら空港のコンビニでせめておにぎりだけでも食べようと思って選んだものが高箱ガニのおにぎりだった。無意識にちょっと良いもの選んでて面白いね。

 


マカオといえば富豪がカジノで豪華絢爛に遊ぶか、香港メインの旅行でチラッと立ち寄るか、アジアの国々に行き尽くしてマカオにでも行ってみるか〜といった感じだと思うんだけど、我々貧乏大学生たちはそのいずれでもなかった。予定していた台湾旅行が2018年2月に起こった地震のため中止になり、その頃には他の国への予約はほとんど埋まっていたため、なんかアジアだし聞いたことあるし前年に行った韓国のカジノでガッツリ稼いで味をしめた私たちはマカオ行きを決めた。

 


それが、マカオ。『アジアのラスベガス』と呼ばれるだけあって、物価が高い。韓国のカジノとは比べ物にならないほど掛け金が高く、気軽にルーレットも回せない。となりの席の風船みたいな中国人のおじちゃんが20万をポンっと賭けてろくに集中せずずっとスマホゲームをしてるからどっちかにしろ!とコインを奪ってやろうかと思った。儲け目的のためではなくあくまで金持ちの娯楽ということだ。

 


また、他のアジアの国々がその辺の屋台や小屋に美食が転がってるのに対して、中華とポルトガル料理の融合であるマカオ料理というものは、私の口には合わなかった。ちゃんとしたレストランに行っていれば素材や味付けが素晴らしく私のバカ舌も「これが高級料理ね!」と納得したかもしれない。しかし私たちは1食目ですでに質素な大学の学食が恋しいなといった感じだった。

 


そんなマカオだが、マカオ歴史市街地区という世界遺産に登録されている場所もあり、数多くの教会や広場を見て回ることができる。教会の多くは色使いがカラフルで可愛らしい建物がいくつも並んでいる。日本史でも有名なフランシスコ・ザビエルの腕の骨?が納められている協会もあった。

 


観光客が多いとはいえ、現地の人が礼拝する場所なので私は恐らく生まれて初めて本当の意味で祈りを捧げる人たちを間近で見た。それ以前に日本で見た初詣や、お葬式で手を合わせる人たちとはまったく違って見えた。直前に大失恋をして訳が分からん状態になっていた私はその姿に衝撃を受けた。

 


一人のおばあさんに近いおばさんが、地面に膝をついて手を合わせ、指を重ね、目を閉じ、その手に額をそっとつける、という一連の動作を見て、私にはそのおばさんの周りに目には見えないけれど淡い光の膜ができているようなイメージが浮かんだ。そこには、願い事だとか誰かのためにとかそういった言葉に変換できるような具体的な何かではなく、ただそのままの『祈り』があった。

 


心の底から願っていたと思う。少しでも長く一緒にいたかった。レンゲで冷奴を4等分する仕草や、目を伏せた時のまつげ、他の誰も呼ばない名前で私を呼ぶ時の少し高い声、繊細そうな横顔、どれも壊したいくらいに欲しかった。付き合えなくても良いから、誰のものにもならずに、私の言葉に笑ったり私のために涙を流してくれるこの人が歳を重ねていく姿をとなりで見ていたかった。

 


そんな考えが数年かけて骨の髄まで染み渡るような時間を過ごしてきた私には、祈りの姿は衝撃で、同時に恥ずかしくもなった。私利私欲の塊のような私の願いがどろっとした絵の具やペンキだとすれば、その教会でお祈りをしている人たちは光を反射した眩しい白だと思った。

 


こういうものを見られるから旅行って良いんだよな…と思いながら私の心まで浄化されたような心持ちで、帰りに寄ったカジノで友人が大惨敗してホテルの外で土下座してたからさっき見た膝をつくおばさんと大違いだな…と思った。日本に帰ってからも泣いて泣いて泣いて過ごしていたら一週間後に好きな人から連絡が来て、鳥貴族で金麦大で乾杯した。その日も冷奴を4等分してくれて、こんな小さなことで十分だからって思えて、これが私の祈りだと思った。ていうかめちゃくちゃ泣いた数日間なんだったの?

葉っぱの緑に水滴が映える、瑞々しいオレンジが光って見える。

忘れられない文章がある。インターネットという海の中で偶然出会った。あの文章に再び出会うために、もしかしたら私はここに漂い続けているのかもしれない。

 


そのブログはいつの間にか消えてしまった。書いた張本人も見つからない。じっくり読む余裕なんてないほど、急かされるように読み進めば進むほど作品としての脅威が心地よく、才に呆気に取られて印象に残ったフレーズをメモもしていなかった。スクリーンショットなんかもちろん残っていない。正真正銘、幻になってしまった。

 


あんなに寂しくて、孤独で、すべてから置いてけぼりにされたような悲しい夏の文章を書く人になんか絶対に出会えないと思う。私には書けない。日常のようでいて生涯で一度も巡り合えないような、救いなんてないのに祈ってしまうような、色鮮やかな花束の対義語のような、夏の日差しに目が眩むような、不幸でなくて楽しくもない、淡々とした文章。

 


今まさに、こんな風に、私にはそれがどれだけ素晴らしいかを言い表す言葉さえ見つからない。並べて文章にするなんてとんでもない。あの文章の色や香りや温度を思う時、自分の非才を思い知らされ、絶対に追いつけないと思うものがある幸せの手触りを知る。その形をなくしたからこそ、ずっと胸と脳に残り続けていることも含めて、ますます夢のようだ。

 


実際、それは夢の話だった。長くはない文章で、ある日の夢について書かれていた。たったの一文も思い出せないのに、私はそのブログのことを思うだけで初めて読んだ時の動揺を思い出せる。

 


激しい羨望があり、静かな諦観があった。嫉妬が渦巻き、果てしない敬意があった。

 


どんな絵の具を混ぜてもあの鮮やかさの純度には及ばないし、どんな素晴らしい調律を持ってしてもあんなに私の心に真っ直ぐに響くことはないだろう。

 


幻の夢の話は、まるで私が見た夢であるかのように、絶望からしか採れない甘い蜜のような気持ちにさせてくれる。あんな文章を書けるようになりたいという渇望を潤すように、私は人知れず何かを書き続け、広大の海の中でたどり着くはずのない光と似たものを作り出そうともがいている。

死のうと決めていた日に髪を切ったら生き延びてしまった話。

去年の春先に体を壊した。

 

原因はストレスだった。初めは、常に怠いし気分も重いしなんなんだって感じだったんだけど、そのうちそれまで夢中だったことが楽しめなくなって、一番の癒しだった読書さえ集中できず、気が付いた頃には朝起きた時に思うように起き上がれなくなり、やがて声が出なくなった。それでも仕事は無遅刻無欠席、仕事だけが生き甲斐だったので休みたくなかっただけだけど、ベッドから無理やり体を落としてタクシーで通勤していた。

 

そんな日々の中でも特に、あれが決定打だったなと思う出来事がある。朝、ストレスの原因の9割を占めている母が放った一言で、今日は仕事が終わったらこのまま家に帰らず、どこにも帰らず、明日が来ないようにしちゃおうと思って家を出た。本気でそう思ったから二匹の犬をいつも以上にしっかり抱きしめて思い切り頭とお腹を撫でて、一番お気に入りの靴をはいた。

 

いつも指名する美容師さんがいる。静かで、よく笑うのに静かで、話さない時はまったく話さないし、かと思えば突然話しかけてくれたりする。この人と話していて不快になったことは一度もない。無言が気まずいわけでもない。美容室で、そんな人と出会えるのは稀なので私はずっとこのお姉さんの元に通い続けている。

 

本当にただの思いつきで、仕事の休憩中になんとなく髪の毛を整えたくなり、たまたま予約が空いてたので帰りに行くことにした。自分が今日ですべてをおしまいにしようとしていることを忘れたわけではなかった。明日が来ないことと、髪を切りたいということはまったくの別物のような気がした。髪を切るという行為の頭が軽くなるような、さっぱりしたイメージが、禊を払うというか神聖な儀式のように感じられたのかもしれない。

 

あの期間中、誰にも口に出してしんどいとは言わなかった。ツイッターでだけ弱音を吐いていたけど、元来私は誰かに辛いと言ったり、辛い顔をすることが苦手だしそうしたいとも思わないので、友達にも職場の人にも誰にも相談することも異変に気付かれることもなく、私はいつも通りだった。

 

その日もお姉さんの口数は少なかった。どれくらい切りますか?(その時私はまだ好きな人に伸ばしてと言われた髪を律儀に伸ばし続けていた、好きな人と会えなくなってすでに半年経っていたのに)って、それだけ。それがあまりに心地良くて、雑誌に目を落とすふりをして鏡に映るお姉さんの仕事をしている姿と、顔色を失って久しい自分の白い顔を視界の端で見つめていた。

 

母のために生きてきた。力でねじ伏せられていた幼少期を過ぎても、母のことを幸せにしたい、母の喜んでる姿を見たい、不安な思いをさせたくない、という一心で母の元を離れず、自分に出来ることはなんでもやってきたつもりだった。それが私の生きる理由だった。

 

それがその日の朝、癇癪を起こして私のことを罵倒する母の「頼んでもいないのに」と言ったその一言で、そのたった一言で私は頭が真っ白になった。そうか、頼んでもいないのにって思ってたんだな。それが母の本心の全貌ではないにしても、咄嗟にでもそんな言葉が出るということはそういう気持ちが少なからずあるということだろう。そうか。頼んでもいないのにって言ったんだな、この人は。

 

髪にハサミを入れられたり薬を塗られたりラップをされたりしながら、朝のことを思い出していた。これで全部終わりにできる。人前で元気に振る舞わなくても良いし、来世では現世のトラウマもリセットされてるだろうし、好きな人といた頃の幸せだった記憶もある。今度は温かくて守られていて痛みの少ない人生だと良いな。そんなことをぼんやり考えているとお姉さんが突然、「あいにくの雨ですね」と言った。顔を上げたら鏡には少し毛先が軽くなっただけなのにいつもとは明らかに違う自分の姿があって、なぜか無性に、『もう一日生きたい』と強く思った。

 

ということがあったのが去年の梅雨ごろ。あの時の、お姉さんの言葉の発音ひとつひとつを今でもはっきりと思い出せる。あれから一年、昨日もお姉さんは静かで、お仕事にそんな可愛い格好で行ってえらいですね、って言ってくれて、最近よく行くお店を聞いたら中華の飲み屋さんを教えてくれた。生きている理由なんて、たとえ1回限りの出会いだとしてもこの人に会えてよかったと思える人達と、自らの意思で足を運んだ場所での出来事だけで十分だと思う。どうしてももう一度会いたいと思う人がいると、なおさら良い。帰りに早速教えてもらった飲み屋さんに寄って、楽しくて美味しい時間を過ごせた。生きていて良かった。

海を見に行こうと思った話。

海が見たかった。


どうにもならないことって本当はそんなに多くないんだと思う。受験、進路、人間関係、転職、その年齢によって悩んでたことは様々だけど、打開策や代替案もきちんと用意されていて、人によって差はあれどいくらか選択肢もある。

 

だけど恋愛だけは本当にどうにもならない。


昔、睦月と遊んだ時に「今までで一番悲しかったことって何?」って聞かれて、私は長年片思いしていた好きな人に恋人ができて振られた時だと答えた。これは、人によってはしょうもない答えだと思うかもしれない。実際、悲しかったことなんて数え切れないあるし、あまり人に言わない方が良いんだろうなと思う酷い出来事もあった。それでも、本当にどうすることもできなくて、諦められなくて忘れられなくて離れられないから為す術もなく誰かと幸せになる好きな人を見ているしかなかったあの時の悲しみが他の何より一番綺麗に消化できなかった。


今となっては誰かのことを好きになってもどうすることもできない。前述の人を好きだった時は正直、自分にできることはなんでもしたって言い切れる。髪型、化粧、ダイエット、職場、考え方、生活リズム、お酒の好み、変えられるものは全て変えた。私だって麻痺してるわけじゃないんだから好きって言う時は手が震えるほど緊張する。ほとんど祈りのようだった。デートに誘うのも告白するのも決して気軽じゃない、慣れる日なんか来るわけない、いつも必死だった。


勇気を出して自分の好意を相手に伝えることが必ずしも美談ではない。とても単純な話だけど、そんな気のなかった相手から好きだと言われた時の困惑、断った後の罪悪感、気まずさは自らも経験したから分かる。自らの欲望のために、好きな相手にそれと同じ思いをさせるだけなら言わない優しさの方がよっぽど勇敢だと思う。


「告白したことをきっかけに相手に意識してもらえて上手くいった」例もあるだろうけど、私の場合初めから望みはゼロだと分かっていたから、その上で改めて好きだと言うのは自己満足としか言いようがない。当時、発色さん(現、中村森さん)が仰っていた『幸せな両想いには出来なくても、美しい片想いにしたい』という言葉に大変感銘を受け、それ以来ずっとそれを目指してきたけど、そのためには少なくともそう何度も好きだと伝えるべきではなかったと、そう思う。


歩み寄るか、秘め通すか。そのどちらかしかない。その一瞬にありったけの勇気を振り絞るか、潔く言わない決意を貫くか。傷つく覚悟もなしに恋を実らせたいというのは傲慢だと思う。そんなことを考えるのにも疲れてしまって、私は簡単に諦められるようになった。


「かなわない」と思うものが見たかった。自分の手ではどうしようもない、果てしないもの。ずっと続いてきてこれからもずっと続いていく、大きすぎて恐怖すら感じるもの。ある小説の中にこんな文章がある。


『あたり前のことを、こんな力を持った夕暮れでも見ない限りなかなかわからない。

私たちは100万の書物を読み、100万の映画を見て、恋人と100万回キスをしてやっと、

「今日は一回しかない。」

なんてたぐり寄せるとしたら、1ぺんでわからせて圧倒するなんて、自然とは何とパワフルなんだろう。』


海しかないと思った。もし綺麗な貝殻を見つけられたら、見せたい人がいた。1時間くらい歩いた砂浜で唯一拾った小さな白い貝殻を、小さな斜めがけ鞄に閉まった。見せることはなかった。海に行ったから写真を見てほしいんだということも、結局は言えていない。そんな簡単なことも言えなかった。海を見ながらずっと泣きたかった。たぶん、やめようって思ってたんだと思う。昨日の最後の最後に振り絞った勇気のことを早く笑えるようになりたい。

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そのあとしばらく恋について考えてた。

眠れない日が続いていたけどそうさせたのはほんの些細な出来事で、それを打ち破ったのも実に取るに足らない出来事だった。これだけ一喜一憂してしまうならやっぱり誰のことも好きになんかならなくて良い。

 

ベッドの中で寝返りを繰り返すうちにいつも暑くなってしまうから昨日は窓を開けて、そのまま眠ってしまった。穏やかで物足りなくて満たされていた。もっと、って思うようになったら落胆や失望が待ってる。熱い耳に涼しい雨の音が響き、4月の雨か、と思った。私は雨が苦手だけど、こればかりは心地いいなと思った。火照った頭を冷ましてくれるようだった。後はもう下がるだけだからもうこのまま閉じ込めてしまいたい幸福の中にいる。

 

マクドナルドでアイスティーを買って公園に行くと人が多くて参った。私は本を読みに来たんだけど、活気があるのではなくてただただ人が多い。暖かかった。半袖のおじいさんもいればべったりくっつくカップルもいたし、鳩に餌をあげるおばさんは日傘をさしていた。

f:id:nunnun1:20200420211228j:imageベンチでアイスティー飲みながらずっと一点を見つめてた

 

噴水の音を聞きながら昨夜の雨を思い出していた。深夜3時にしとしと降る雨が叶わなかった何かの象徴にならなければ良いなと思う。

 

昨日焼いたパンを食べていたら不要不急のおめかしワンピースにチョコレートがたれた。もうなんでもよかった。寂しかった。チョコがこぼれた!と言える相手が隣にいたとしたらちゃんと悲しめたのかな。

f:id:nunnun1:20200420212106j:imageふわふわにしたいのにもちもちになる

 

最近ずっと左腕が痛い。眠れなかった数日が祟っていつも眠い。泣きたいくらい会いたいと思う人なんていない方が良い。まだ泣きたいほどではないことだけが救いだ。